社会の「性」に対する抑圧と生きづらさ
ふと気づくと社会全体が呼吸を止めているように感じる。特に性にまつわる表現や振る舞いに対してだ。
アニメやAVといったメディアは、規制の網が一段と細かくなり加速度的にその自由度を失いつつあるように感じるが、それはメディアだけの話ではない。社会の視線全体が、性的なもの、性的な言動に対してかつてないほどの厳しさを帯びているように感じる。
もちろん、他者の尊厳を傷つける事や法を犯す事が許されるべきではないのは大前提であり規制を撤廃しろなどという暴論を唱えるつもりは毛頭ないが、問題はその厳しさが境界線を超えて私たち個人の「内側」にまで踏み込んできていることにある。
性のエネルギー、性的な妄想というものは誰の心にもマグマのように煮えたぎっているものだろう。妄想はリアルな行動には至らないが誰にも迷惑をかけない私的な「はけ口」であって安全装置でもあるはずだ。
しかし、その安全装置の駆動系たる表現の世界が狭まり、さらに社会全体で「性欲を持つこと自体が異常である」とでも言いたげな雰囲気が強まるとどうなるんだろう。
内なる性欲妄想が行き場を失いただひたすら人々を悶々とさせる。
これは、生きる上で想像以上に重たい。誰にも打ち明けられない、誰にも見せられない欲求を抱えただ耐え忍ぶ日々。この閉塞感は、本当にしんどい。
いっそ、こんな厄介なものを持っていなければどれだけ生きやすいだろうと本気で願うことがある。
人間が進化論に従うのなら不要なものはやがて淘汰される。少子化が叫ばれるこの時代に、種の存続という生物学的な使命を果たすための原動力であるはずの性欲が逆に生きづらさの元凶となり社会的な重荷となっているのではないか。
そうであるならば、この「不要な」重荷はいずれ人類から消えていくのではないかと思う。
もしかしたら現在の少子化の進行は経済的な理由だけでなく社会の「性」に対する抑圧と生きづらさから「この面倒な欲求は要らない」と静かに決断を下しているその表れなのかもしれない。
性欲が消えたとき人類は生きやすくなるのか? それとももっと根源的な何かを失うのか。私たちはいったいどこへ向かおうとしているのだろうか。
写真は「NGワード」の文字にモザイクをかけたジャケット。
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