令和のハイテクに敗北2 届かぬ声の行方
輪ゴムでくくられた薄い年賀状の束と、スマートフォンの画面を埋め尽くす夥しい数の新年のメッセージ。その光景に改めて時の流れを感じざるを得なかった。
かつて、新年の挨拶とは「予祝」の儀式であったらしいが、郵便局が指定する年末の限られた期間に、まだ見ぬ新春を想いながら「あけましておめでとう」と筆を走らせねばならない。かつてそこには時の経過を先回りするようなゆとりと様式美が存在していたのだろう。対して、日付が変わる瞬間に鳴り止まないアプリの通知音は、まさしく「今この瞬間」を共有する現代的な合理性の産物と言えるだろう。
コミュニケーションツールの劇的な進化は、私たちの日常を一変させた。時間と場所の制約を飛び越え、しかも殆どコストをかけずにベッドに寝ころびながら他者とつながる事ができる。しかし、いつでも、どこでも、誰とでも繋がれるという当たり前の日常の裏側で、私たちは大切な何かを切り捨てられているのではないだろうかと思わざる得ない小さな事件が起こった。
先日、帰郷した折、耳の不自由な母に代わり、親戚の女性へ緊急の伝言を伝えるべく受話器を取った。しかし、返ってきたのは、こちらの言葉を撥ね付けるような強烈な拒絶であった。やむなく彼女の息子さんに連絡を試みたが、スマホはつながる事がなかった。
後に知った理由は、現代社会の歪みを象徴していた。女性は巧妙化する特殊詐欺への恐怖から、聞き慣れぬ男の声に防衛本能を尖らせていたのだ。そして息子の方も、登録外の番号を自動的に遮断する設定にしていたという。悪意から身を守るための「盾」が、皮肉にも身内からの切実な声を遮断する「壁」へと変貌していたのである。
効率化の果てに私たちが手にしたのは、容易に繋がれる自由ではなく、むしろ「繋がらないこと」を選択しなければ生きにくい不自由さだった。緊急時の連絡は電報かな?!






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